こんにちは、パーマです!
今回の隊士紹介は、山南敬助です。
土方や沖田、斎藤に比べれば名は通っていないかもしれませんが、古くからの幹部であり、文武に優れた人でした。
特に新撰組内では文字を書けない・読めない者も多かったと言われます。
その意味で、新選組には珍しいタイプ。
最後は切腹してしまうのですが、その謎やエピソードもファンの中では有名です。
個人的には、もし山南が生きていれば新選組の命運や、最後まで幕府について戦うということも無かったかもしれないと考えています。
そんな山南敬助を皆さんにも知ってもらいたい!
こんな方におすすめ
- 新選組に興味をもったばかり
- 映画の予習をしたいけど、山南敬助って誰?
- とにかく新選組をしりたい!
といった方に、特におすすめです!

目次
文武に優れた男だった山南敬助
出自は謎が多い
山南は仙台藩出身といわれますが、謎。
剣は北辰一刀流の千葉周作道場で免許皆伝とされますが、小野派一刀流という説もあり、これまた謎。
ですが、天然理心流へ他流試合を挑んだときに近藤に敗れ、それから近藤を慕って入門してからは、試衛館の食客となり近藤らと常に共にいることになります。
新選組総長に就任
文久三年に浪士組に参加し上京するのですが、その道中では上司の振る舞いに腹を立てて謝罪させたとか・・・
温厚ですがキレたら怖い!
新撰組となった後は、土方とともに副長に就任します。
その時は、局長に芹沢と近藤の2人という形ですね。
芹沢暗殺の際には剣の腕を買われて刺客になり、暗殺に加わります。
そして、近藤一派が実権を握ると、総長に就任します。
位としては、NO.2!
局長:近藤勇 - 総長:山南敬助 - 副長:土方歳三
の序列です。
学問があり剣の腕も立った山南は隊士から慕われており、「さんなんさん」と呼ばれました。
大阪では、北船場の岩城升屋という商人の家に押し入った浪人を打ち取っており、会津藩から8両の褒賞も受けています。
この時に愛刀の「赤心沖光」を折ってしまうのですが、その様子を紙に書いたもの(押形)を土方が支援者である小島鹿之助に送っています。
今も小島資料館で見ることができますよ!

出典:多摩デジタル新選組資料館
真ん中が「赤心沖光」ですが、ポッキリいってますね・・・!
激しい戦いだったのでしょう。
試衛館派だったが新選組を脱走
池田屋事件には不参加
新選組の名前を一気に高めた池田屋事件ですが、山南は不参加です。
病気だったようで、知人が江戸から来ても合えなかった程だとか。
そこから、歯車が狂ったのかもしれません。
徐々に山南の影が薄くなってしまうのでした・・・
新選組を脱走
学があり北辰一刀流の道場主でもあった伊東甲子太郎が入隊してからは、更に影が薄くなってきます。
そんな中、新選組は西本願寺へ屯所を移します。
西本願寺は長州との関係が深く、長州藩士を匿ったり逃がしたりしたお寺。
発案者の土方としては、首根っこを抑えるという考えがあったのでしょう。
当然、西本願寺はやめて欲しいと言います。
山南も、近藤に「移転の名目で、寺(長州ら討幕派)の動向を探るのは卑劣ではないか」と中止を求めます。
しかし、無視されてしまう・・・
怒った山南は、「私の申し出を近藤が受け入れないのは、土方たちの策略のせいだ!」と書き残して脱走してしまいます・・・。
これらは、西本願寺の寺侍である西村兼文が語った内容です。
切腹
脱走した山南ですが、大津宿で沖田に捕まってしまいます。
一説には、山南から声をかけたとも言われていますが、真実はわかりません。
屯所へ沖田と共に戻り、局中法度に基づいて切腹が申し渡されます。
永倉は「後のことは任せて、もう一度脱走しろ」と言ったそうですが、「もう覚悟は決まっているから」と断り切腹の命を受け入れます。
介錯を沖田に頼み、「良いというまで切ってはいけない」と申し伝えて、切腹・・・。
その最後は「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と近藤に言わせる程だったとか・・・。
享年33歳。
その墓は、光縁寺に安置されています。
なぜ脱走したのか?
局中法度の内容と厳しさを知っていたはずの山南が、なぜ脱走したのか?
これには諸説ありますが、一般的なのは「近藤・土方らとの確執が、西本願寺の移転問題で爆発した」というもの。
私個人の見解ですが、
はてな
・追っ手が沖田だけだった
⇒近藤や土方は、密かに逃がすつもりだったのではないか?
・逃げる時間はあったのに大津という近い宿で追いつかれた
⇒本気で逃げる気は無かった?
ということから、確執はそこまで大きく無かったのかもしれないと思っています。
もともと山南は尊王攘夷思想の持主であったのが、新選組が佐幕に固まっていくことを憂いたのかなと。
同じ日本人同士で争わず、一致団結して外国と戦おうと。
そして、自身の身をもって近藤や土方たちの考えを改めさせようとしたのかな、と考えています。
山南敬助のエピソード
島原の天神・明里との悲恋
切腹をする直前、永倉新八の配慮で、山南の馴染みだった島原の天神である明里と最後の別れをしています。
前川邸の格子ごしに、最後の言葉を交わしたのちに切腹。
明里は格子の下で泣き崩れたとも・・・。

ゆかりの地を訪ねよう!
光縁寺
大宮駅すぐ
開館時間:9:00~17:00
山南のほか、松原忠司らの墓もあります。
年に1度、山南を偲んで「山南忌」が行われています。
詳しくは、旧前川邸(公式サイト)にて。(光緑寺への問い合わせはNGです!)
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小島資料館
開館:毎月第1・3日曜日
13:00~15:00
アクセス:小田急線多摩センター駅から
バス「小野神社前」下車
料金:中学生以上 600円
小学生 300円
山南の押形のほか、新選組に関係する資料もたくさん!
山南敬助を知ってほしい!
「武人として文あり」と評された傑物である山南敬助。
今も慕うファンは大勢います。
この記事をきっかけに、山南敬助のファンになってもらえたら嬉しいです!