こんにちは、パーマです!
新選組隊士紹介コーナー!
今回は、10番隊隊長の原田左之助です!
るろうに剣心の相楽左之助のモデルにもなった隊士。
美丈夫(イケメン)としても有名な人。
こんな方におすすめ
- るろうに剣心ファン
- 新選組幹部を知りたい方
- 上野戦争に興味のある方

新選組の基礎知識と時代背景はこちらで。
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目次
新選組をやさしく解説!幕末の時代背景も押さえよう!
新選組ファン歴30年の天然パーマが、新選組についてやさしくお伝えします。どうやって新選組は生まれたのか。その時の時代背景は?これからファンになる方向けです。
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原田左之助って、どんな人?
試衛館からの古参幹部
左之助は、1840年、伊予松山藩(現愛媛県松山市)の下級武士の子として生まれます。
4人兄弟の3番目で、当時から眉目秀麗な好男子として有名だったそうですね。
下級武士の子は下級武士にしかなれないという時代の中、それに折り合いをつけることができず、不満な毎日を送っていました。
しかし、藩校明教館の助教の若党として出仕することを許されます。
ここで頭角を現すのですが、下級武士は下級武士というレールに乗らずに自らの力で成り上がっていこうと努力をしたのでしょうね。
ただ、ここで周りとトラブルを起こして(後に書きます)国を出て、大阪、そして江戸へと出てきます。
そうして、試衛館の食客として過ごす中で、浪士組に参加して京へと上ってくるのでした。
幹部に珍しく槍の使い手
試衛館組を中心とする新選組幹部は、基本的に剣の達人ばかりでした。
天然理心流はもとより、当時はやっていた北辰一刀流や神道無念流などなど。
天然理心流:近藤勇・土方歳三・沖田総司・井上源三郎など
北辰一刀流:山南敬助・藤堂平助・伊藤甲子太郎など
神道無念流:芹沢鴨・永倉新八・三木三郎など
そんな中で、原田左之助は種田流槍術という槍の使い手でした。
他には、谷三十郎と万太郎の兄弟や島田魁くらいで、三十郎が大阪で開いていた道場に原田も通っていたとも言われます。
槍は戦という実戦の場においては剣よりも強いといわれていました。
種田流は宝蔵院流槍術と対をなすくらいに隆盛を誇った流派で、乱戦では刀剣よりも優れると、実戦派として認められていました。
三条大橋制札事件で活躍!
原田左之助は、新選組のなかでも多くの戦闘に参加した武闘派でもあります。
新選組の初陣である禁門の変から、芹沢鴨暗殺、内山彦次郎襲撃、油小路・・・大きな戦闘にはほぼ参加。
池田屋事件にも参加していますが、四国屋に向かった土方隊に加わっていたため遅れての参加ですね。
そんななか、大活躍したのが「三条大橋制札事件」!
三条大橋制札事件とは
禁門の変で敗れた長州藩は、御所を犯した「朝敵」であり、それを広告した立て札が三条大橋にありました。
幕府の権威が失墜するに従い、その制札を破損する事件が起き、その調査を新選組が請け負います。
そこで犯人である土佐藩士と争いになったのが、三条大橋制札事件です。
その日、部隊を配置して犯人を待ち構えていた左之助らは、土佐藩士8名が制札場に侵入する前からつけており、進入時に急襲!
主犯を打ち倒し、一人を捕縛したのでした。
最後は上野戦争で・・・
多くの活躍が認められ、左之助は新撰組内でも出世を遂げ、1867年には幕府直参に取り立てられます。
伊予松山藩の下級武士の子からすれば、大出世!
今で言うと、地方の町役場から国家公務員になる感じでしょうか。
しかし、そんな出世もつかの間、大政奉還により幕府は倒れ、新選組は会津とともに朝敵となってしまうのでした・・・。
鳥羽伏見の戦いで幕をあける戊辰戦争において、左之助は江戸から甲州征伐へと転戦します。
そして、永倉新八と靖共隊を結成し会津へ向かおうとします。
しかし、ここで左之助は「大切な用事があるから、それを済ませてから、後を追う」と言って別れ、江戸へ引き返してしまいます。
永倉新八は「妻子への愛着で引き返したのだろう」と後に語っていますが、左之助は妻子には会わずに、そのまま上野の彰義隊へ参加。
そして、上野戦争のなか、受けた銃弾がもとで亡くなったのでした・・・。
なぜ、そのまま彰義隊へと参加したのかは謎です。
原田左之助の逸話
腹に切腹のあと!?
伊予松山藩時代、下級武士ながら取り立てられていた左之助は周りとうまくいっていなかったようです。
もともと短気な性格もあり、上級武士への反発もあったのでしょう。
あるとき、藩の武士と口論になり、「腹を切る作法も知らない下衆野郎(下級武士だから作法も知らんだろうという意味もある)」と言われます。
それに腹を立て、「それじゃあ、やってみせてやる!」といきなり裸になって腹を一文字に捌きます・・・!!
それを見た武士たちは青くなって逃げて行った・・・と新選組物語に紹介されています。
マジか・・・
酔っぱらったときには、この腹の傷を見せていたと多くの隊士が語り残しています。
愛妻家!
左之助は、京都時代に町娘と結婚しています。
お名前は”まさ”さん。
翌年には男の子が生まれ、”茂(しげる)”と名付け、とても可愛がったそうです。
屯所の近くに所帯をもち、頻繁に変えるなど愛妻家として噂されました。
戊辰戦争の折に200両を当座の生活費として渡しながら、「茂を立派な武士に育ててくれ」と何度も言い残したそうです。
これが、最後の別れとなりました・・・。
生き延びて満州に!?
上野戦争で亡くなったとされる左之助。
しかし、生き残って満州に渡って馬賊のボスになっていたという説があります。
これ、ただの妄想ではなく、実は新聞記事にもなった説だったりします!
それが、大正12年6月8日付けの愛媛新聞。
左之助が明治40年ごろに故郷の松山に現れ、弟や甥を訪ね歩いたそうです。
この時に、「満州で馬賊の頭目になり、日清・日露戦争では日本軍のために後方から支援した」と語ったとのこと。
また、多くの金品も持ってきていましたが、坂本龍馬暗殺の犯人と弟は誤解していたようで、よそよそしい態度をとってしまったと残っています。
ここまで残っていたら、本当かも!?と思ってしまいますね!
関連作品
るろうに剣心
原田左之助の関連と言えば、やっぱりこれ!
和月先生も 、左之助は原田左之助をモデルにしていると書かれていますね。
で、特別エピソードでは満州で馬賊になっているという小ネタも!
さすが、新選組ファンの和月先生らしいですね!
まとめ
原田左之助は知る人ぞ知るという隊士ですが、新選組ではとても重要な人。
エピソードも豊富ですし、ぜひぜひファンになって欲しいですね!