幕末・新選組

会津公・松平容保。孝明天皇一番の忠臣ながら逆賊にされた悲運の人。

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新選組を語る上で欠かせない人物はたくさんいます。

生みの親と言える人物も何人もいますが、その中で最も親と言える存在。

新選組を理解し、頼ったのが松平容保公!

教科書などには載らないですが、歴史に名を残す人物だと思います。

何より、貫き通した義が武士らしい。

ただ、時代が彼に味方をしなかった・・・。

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ぜひ知ってもらいたい人物!

容保公も含めた、新選組の基礎知識はこちらで

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新選組の名付け親!容保公がいなければ新選組は無い!

浪士組を抱え、新選組に

新徳寺

京都に残った浪士組の一部であった近藤や芹沢たち。

それを召し抱えたのが会津藩であり、松平容保でした。

浪士組や近藤たちが残った経緯は、清河八郎の回で詳しく書いています!

清河八郎
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そして、八月十八日の政変の後、新選組」という名を与えたのでした。

正式に会津藩お預かりとなった新選組は、京都守護職である容保公のもとで京都の治安維持に精を出していきます。

松平容保公ってどんな人?

(出典:会津若松市HP

火中の栗を拾う。京都守護職に。京の治安維持に奔走。

江戸時代まで、朝廷は京都にありました。

その京都を守るための京都所司代と、大阪に大阪城代が置かれていました。

その上に立つ職として、文久2年に京都守護職が創設され、松平容保公が任命をされたのです。

ただ、最初は断っていたそうです。

しかし、松平春嶽の説得などがあり、「義を重んずれば、利害を考えるべきではない」と決意されました。

誰もがやりたがらなかった京都守護職を義をもって受けたわけですが、この決断が運命を決めたのでした。

孝明天皇から厚い信頼を得た義の人

この決断によって京都守護職に就いた容保は、翌年に孝明天皇に拝謁を許されます。

孝明天皇は外国嫌いでしたが、「公武合体」を進めるためであり、容保は忠誠を誓うことになります。

そして、孝明天皇も、この義の人に深い信頼を置くようになりました。

長州を始めとした過激派が活発に動いていた京都で、治安維持のために容保は身を粉にして尽くします。

その働きに対して孝明天皇な、八月十八日の政変では「容保に任す」とまで言われ、徹夜続きの容保のために宿舎も用意された程。

また、直筆の手紙もいくつか送られています。

いくら大名とはいえ、かなり異例のこと。

それくらい、孝明天皇は容保公に信頼を寄せていたことがわかります。

孝明天皇さえご存命であれば、容保の運命もまた違ったのでしょう・・・。

恭順を表すがいつのまにか朝敵に・・・最後は会津戦争へ

慶応2年、禁門の変で長州を撃退するなどした薩摩藩とされた側の長州藩、犬猿の仲だった薩摩と長州が手を結びます。

薩長連合」です!

これによって薩摩藩は討幕派へと180度態度を転換します。

そのような大きなうねりが起きるなか、その年の12月に孝明天皇が崩御されます。

一説には毒殺という話も・・・。

首謀者は岩倉具視で、幼い明治天皇を思うままに操れるからとも言われます。
(討幕の勅命も岩倉作という説もあったりします)

(岩倉具視・出典:国立国会図書館

翌年には徳川慶喜の大政奉還が行われ、容保はこれに大いに賛成したそうです。

それもあり王政復古の大号令によって京都守護職が廃止されたあとは、大阪城に入り慶喜と共に行動をともにします。

容保に争いを大きくする意志はなく、慶喜と一緒に恭順の意思を示し、嘆願もしているのですが全て無視されました。

薩長からすれば、幕府を倒して支配層を全て入れ替えないといけなかったので、戦争をする必要があったんですね。

そして、幕府は朝敵となり、孝明天皇に尽くした容保公と会津藩も同じく朝敵になったのです。

体調を崩しながらも使えてきた容保公ですから、「なぜ!?」という思いもあったのではないででしょうか・・・。

結局、会津戦争へと突入。

白虎隊や鶴ヶ城の悲劇へと繋がります。

そのあたりは、斎藤一を主人公としたものですが、「誠のくに」が詳しいです。

時代の流れで朝敵となり敗者ってしまった会津と容保公。

その後に待ち受ける暮らしも苛烈なものでした。

戦後は困窮するも、受け入れ生きていく

戦に敗れた会津藩は、戦死者の埋葬を禁止されるなど厳しい処置を受けました。

容保公も例外でなく禁固刑を強いられます。

明治三年には斗南藩(現青森県むつ市)を息子の容大が立藩し、そこにお預けとなるが、3万石しかなく極寒の地で生活は困窮したと言われます。

明治五年に特赦を受けますが、依然として生活は困窮。

以前の部下から仕送りを貰ってなんとか過ごしていたそうです。

日光東照宮の宮司を務めたのち、明治26年に死去。

死の直前に、正三位を贈られています。

時代に翻弄されながらも、不平を言わず、その時を生きた59年でした。

松平容保公のエピソード

優れた歌人でもあった!

容保公は、幕末の武家では優れた歌人として知られていました。

特に明治元年には「芳山公和歌集」として編纂されています。
(芳山は容保の雅号)

御所でモテモテ!?

京都守護職時代は「会津中将さん」と呼ばれて京都の人に親しまれ、男でもほれぼれするような美男子だったと逸話が残っています。

また、宮中に参内すると女性たちが色めきだったという伝説も!?

明治維新の裏面が分かる!?容保関連本を読もう!

明治維新は、「薩摩・長州など討幕派が正しくて幕府は悪」という単純なものではありません。

敗者の側にも正義があり、物語がありました。

容保公に触れた作品では、そんな明治維新の別の面も知ることができますよ!

以下、オススメです!

「敗者から見た明治維新」 著:早乙女貢

「会津の義 幕末の藩主松平容保」著:植松 三十里

「王城の護衛者」著:司馬遼太郎

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小学校の頃から歴史もの、特に新選組にハマり、史跡を巡り歩いてきたアラフォーです。 読書も趣味で、得たスキルや情報のアウトプットの意味も含めて、当ブログを運営します。 そのほか、狩猟免許(1種&罠)も持っていたりします。 Twitterもやっていますので、よろしくお願いします!

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