田中角栄首相の誕生!日本列島改造へ。大宰相5巻

4巻では、いよいよ田中派が誕生しましたね。この時代は様々な派閥が存在し、総理総裁となるには複数派閥の協力をもって数を確保することが大切でした。総裁選挙で勝つ=主流派となるので、派閥の領袖も自身のチャンスや派閥メンバーの出世を考えれば必死です。
その中で、衆参で80名を超す田中派の誕生は大きなインパクトがありました。
田中派は一時100名を超えたわけですが、その数の力は強力で、田中派が支援した候補が勝つ可能性が高まることから「キングメイカー」と言われ、裏で牛耳ることから角栄は「目黒の闇将軍」とも言われました。
そして、角福戦争や三角大福中などと呼ばれる派閥争いの激化にもつながっていきます。
角栄はロッキード事件で金脈批判をされることになりますが、様々な形でカネを作ってきたのは歴代の派閥の領袖は誰も同じ。
角栄もそのカネを党のためにつかってきました。だからこそ、子分も多かったのでしょう。
「今太閤」とも呼ばれた田中角栄。総理総裁就任から退陣までを描く5巻!
それではいってみましょう!
第1部 庶民宰相の誕生
田中派は昭和47年に旗揚げをされた。会合には衆参合わせて81名の参加があり、他派の人間を大いに驚かせたのだった。
幹事長の保利茂もその一人。福田を推す保利は、首相の佐藤から田中へ福田支持を厳命するよう考える。しかし、すでに当時の1・2年生議員は佐藤の意向など意にしていないことを、保利は理解していなかった。
佐藤も衝撃を受けたが、ワンマン化していた佐藤は、沖縄返還の後に角福調整をし、自分が福田と言えば多勢は従うと未だ考えていた。その辺りが後手に回る一因になる。
沖縄の本土復帰は成るが、佐藤内閣の支持率は16%と低迷。佐藤の不人気が根底にあったが、いよいよ後継者選びが現実のものとして佐藤の前に現れたのだった。
福田の勝利を確実なものにするため、佐藤は中曽根の出馬を求める。中曽根派は河野派を受け継いだものであったが、派内も中曽根出馬の声が高まっていた。中曽根が立候補しなければ、中曽根派が割れ、福田不利と言われていたため、佐藤は出馬を求めたのだった。
中曽根は、福田との間に相いれないものを感じつつ、変節という批判と佐藤・福田協力に対する見返りとしての政財界での利点を天秤にかけ思案する。
そのさなか、佐藤首相への不信任案が提出される。浜田幸一を始めとした1年生議員が佐藤退陣を求め立てこもるが、中曽根がなだめ、何とか不信任案は否決。そこで中曽根は流れの変化を感じ、佐藤・福田から離れることを決意する。
そして、ついに佐藤は退陣。7年8カ月という長期政権(2020年5月現在の安倍首相に抜かれるまでは、在任期間1位)であった。
佐藤は福田と佐藤に1位2位同盟を確約させる。佐藤は福田1位と読んでいたためである。
その夜、角栄と中曽根が会談。中曽根は田中支持を約束する。
中曽根派の動きに他の派閥も呼応。椎名派や船田派も田中支持に回る。
一方、大平も精力的に動いた。田中の後を狙う身として、一定の力を見せる必要があったからである。
総裁選の結果は、1位田中、2位福田、3位大平、4位三木となり、決選投票で田中が総裁となった。
これまでの総理大臣を見ると、皇族の東久邇宮稔彦王を除いて、幣原・吉田・芦田・岸・池田・佐藤と22年間を国立大出の官僚首相が支配してきた。片山・鳩山・石橋の党人首相は3年に満たず、片山・鳩山は東大卒、石橋のみ早大卒だった。
そのような歴代総理と比べ、尋常小学校卒で苦学力行の人が田中角栄であった。
首相となった角栄は、すぐに中国へ飛ぶ。日中国交正常化に取り組むためである。
経済のため日本との提携を求めていた中国もこれを歓迎し、時に行き違いから応酬もありながらも、日中共同声明の調印となった。
日中復交を記念してパンダが送られ、上野動物園に長蛇の列ができたのが、このすぐ後である。
今太閤として田中人気が高まっていたところに、日本列島改造を目指した田中であったが、世界的なスタグフレーションのなかで列島改造を見込んだ投機により地価の高騰が起こってきた。
インフレは列島改造のせいとして、総選挙は自民党の敗北に終わる。一方で共産党が伸びていた。
第二次田中内閣は発足するが、国会は停滞する。そこで田中は小選挙区制の導入を目指す。そこには圧倒的多数を得つつ、共産党を排除する目的もあった。
しかし、野党の激しい反対や党内でも区割りなどに苦慮し、断念することになる。
このころ、第四次中東戦争が勃発。オイルショックへとつながり、狂乱物価となった。
インフレの抑制が至上命題となるなか、片腕ともいうべき愛知蔵相が急逝。福田を蔵相に迎えて金融引き締めへと方向転換を図る。
ここに列島改造は志半ばで頓挫となった。
そのなかで迎えた参議院選挙。ここで政変に繋がる事件が起こる。
浅間山山荘事件の折の警察庁長官で、第3次田中内閣で副官房長官を務めていた後藤田正晴が参議院選挙出馬をするにあたり、郷里の徳島からの出馬を願った。
もともと徳島は三木王国であり、番頭役の久次米参議院議員が議席を保有していた。田中は後藤田を公認するが、それによって後藤田と久次米の激しい争いとなり、三角の代理戦争とも呼ばれるほど禍根を残すことになった。
そして、三木と福田を結びつけることになったのである。
第2部 田中金脈追及
参議院選挙は自民党の惨敗となった。
三木・福田両氏の田中への怒りはすさまじく、それは三木派と福田派の反田中感情に発展していく。
そして、三木は副総理を辞任する。
福田も辞意を決意。長老会議ももたれるが、岸は福田を煽り、福田もそれに乗る。
福田も去り、主流派は田中・大平・中曽根となった。
三木と福田は連携を強固にし、次期総裁選への動きを加速させる。田中退陣の可能性を読んでいたためである。
それは、「文藝春秋」による田中金脈の追求である。→田中金脈問題
この記事から、マスコミは田中金脈追及へと動き出し、政局もにわかに激しくなる。
田中も退陣後を考え大平に助力を求めるが、大平は個人の問題と切る。答弁でも同様の態度を見せ、これが田中派が大平を積極的に擁立しようとしなかった要因ともなる。
田中は椎名暫定総理の案を含んだ内閣改造案を示すが、福田・大平とも自身の次を考え、椎名の入閣を拒む。三木も大儀がないとして反対する。
田中は内閣改造を終え、フォード大統領の訪日を総理として迎える。その日の朝、幹事長の二階堂進に辞意を伝えるのだった。
すぐに後継を巡って各派の思惑が走る。田中派の協力を得れば勝利の見える大平は、公選を主張。アドバルーンを上げる。
三木・福田は公選に反対。大平と、三木・福田連合はデッドヒートする。
党内の安定のため、田中の意を汲んだ保利・椎名が動くが、その動きを岸もキャッチする・・・。
そして、昭和49年11月26日、田中退陣。
最後の声明文を官房長官の竹下登が読み上げ、2年4カ月の田中内閣は終わった。
大人気から、一気に転げ落ちてしまった田中
こういう前に前にというタイプは、守りに弱いのでしょうか。金脈問題から一気に崩れるように退陣へと至ってしまいました。
日中国交正常化、これが田中の大きな功績でした。
しかし、もう一方の看板である日本列島改造は成し得なかった。
時期が嵌まれば勧められたでしょうが、そうなっていたら今の日本はどうだったでしょうね。
田中は退陣しますが、田中派はこれ以後も大きな力を保持します。
現在も派閥は当時よりも薄くなりながらも残っています。この流れを理解することが、政治を理解する一助になります。
このあたりも、いつかまとめてみたいですね。
旧自由党の流れを汲む田中派→経世会系と、旧民主系の流れをくむ岸→福田→清和会系で整理するとわかりやすい。
このあたりは陰謀論も含めて面白いですよね。
なお、安倍首相のお爺さんであるのが岸信介です(なので、安倍首相は清和会系)が、岸はCIAの工作員であったとされています。
それらから、清和会は親米で、経世会系はアメリカにやられる場合が多いとも言われます。
まあ、実際どうかはわかりませんが、清和会系が安泰なのは事実ですね。
さて、総理総裁レースは過熱していきます。そして、総裁の椅子は、意外にもあの人物に・・・。