自由民主党誕生!そして安保闘争へ。大宰相3巻

2巻では、鳩山内閣が誕生して終わりました。3巻は、その続き。昭和29年から。
昭和29年は「二十四の瞳」「ゴジラ」そして「七人の侍」、洋画では「ローマの休日」がヒットした年。オードリー・ヘプバーンに憧れて髪型を真似る女性が多く、ヘップバーン・スタイルが流行語となった年でもあります。
その年末に誕生した鳩山内閣は、ソ連との国交回復を命題としました。そこには、未だシベリアに抑留され帰れない日本人が沢山いるという現実があったのです。
私の知人でも、お父さんやお爺さんが抑留されていた人がいますね。その生活たるや、悲惨であったそうです。
ソ連との国交回復に向かう鳩山内閣。次期総理の椅子のため、その政策に反対する閣僚。すでに跡目争いは始まっていた・・・。
そして、”昭和の妖怪”岸信介が表舞台に!
ということで、3巻スタート!
第1部 日ソ復交
日ソ国交回復を政治課題に挙げてすぐ、ソ連から接触があった。ドムニツキーという男で、外相の重光葵に断られたため鳩山への接触を試みてきた。鳩山は直ぐに会うことを決め、ソ連との国交回復に改めて意欲を燃やす。そこには、講和を成し遂げた吉田の功績を上回るためには、日ソ国交回復と国連加盟だという思いがあったのだった。
ただ、重光外相は面白くない。全権大使も松本俊一に任されてしまう。何とか日ソ交渉を潰し、同時に自身が総理になる絵を描こうと一人もがく。ロンドンにおいて行われていた交渉では、「解決できる課題を片付けて早期の国交回復をまず行い、懸案はそののちに議題とする。そうすれば、歯舞・色丹は返還しても良い」と松本はソ連の譲歩案を引き出す。シベリアの日本人返還を思う松本は、これ以上の譲歩は引き出せないとして本国の支持を仰ぐ。しかし重光はこれを握りつぶし、日ソ交渉は決裂してしまう。同時に日米交渉にも失敗し、重光は政治的権威を大きく失墜してしまった。
内政面でも、国会運営は少数内閣であるため苦労を重ねていた。同時に、社会党の躍進も目立っていた。そのため、三木武吉は保守合同、かつて苛烈な権力争いを繰り広げた自由党との合併を考え始めていた。
事前に話を詰めていた三木は、昭和30年、記者たちに「保守集結が叶い、鳩山総裁が邪魔であれば総辞職しても良い」と狼煙をあげる。自由党の緒方総裁も求められれば検討するという談話を出し、保守合同は現実感を帯びる。
三木は自由党副総裁の大野伴睦も、「保守合同で安定政権を築き、政策を進めることが日本を救う道だ」と口説き落とす。そうして、民主・自由両党の総裁談話により、保守勢力の結集、そして具体的な動きとなっていくのだった。
水面下での交渉を経て、昭和30年11月15日、自由民主党が誕生したのだった。
保守合同にあてられた形で、社会党も右派と左派が再統一し、ここに二大政党時代へ突入した。いわゆる、55年体制ですね。
保守合同を果たし、新たにスタートを切った鳩山内閣だが、合同によって日ソ交渉に反対する重光にも仲間ができた。そして、南千島の返還請求が党議となり、再開されたロンドン交渉も打ち切りとなったのだった。
満足する重光だったが、ソ連はこれに対し北洋漁業の禁止を報復措置として打ち出す。
狼狽える重光に対し、激怒する河野一郎は、自身がモスクワへ乗り込むことを決意。昭和31年4月、交渉団はソ連へと向かう。
ちなみに、この年は経済白書で「もはや戦後ではない」との発表がされ、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種の神器が売れに売れたときでもあります。
さて、モスクワについた河野一郎ですが、交渉は難航。しかし、何とかブルガーニン首相との面談を取り付ける。厳しい交渉のなか、激しく論をぶつ河野は、机上の飲み物をこぼしてしまう。これで場が和み、何とか暫定協定を結ぶに至るのだった。
喜び勇んで帰国した河野だが、その時、すでに三木は病に倒れ余命幾ばくも無い状態だった。そして、その1月後に三木は息を引き取るのだった・・・。
三木の氏は主流派にとって大きな衝撃だったが、顔色を変えたのがもう一人。幹事長の岸信介である。三木と近い河野だが岸を推してくれるか、大野も仲介の三木がいなければわからない、池田は官僚のつながりはあるが旧自由党の関係で石井を推すのかもしれない、三木武夫は誰をおすのか・・・。様々な思いが去来するのだった・・・。
遂に三木武吉が死んでしまった・・・!重しが無くなることで、政局はどうなるのか・・・。
しかし、本当にすごい人ですね。ぜひ、小説三木武吉も読んで下さい!
第2部 日米安保改定
三木の死に揺れる鳩山内閣だが、対ソ交渉は待ったなし。紆余曲折を経て全権を得た重光だが、交渉の可否が総裁につながるとして功を焦りソ連の心証を悪くする。重光案は問題外とされ(これではロンドンで妥結したほうが良かったと松本全権にも言われる)、自身の作った党議に縛られる形で、またも交渉は決裂。失意のうちに去った重光は、半年後に亡くなるのだった。
事態打開を図るため、鳩山自らが交渉に乗り出すことになる。しかし、反対派は強硬で、マスコミには「日日交渉」とも言われる状態であった。何とか、領土問題を含む平和条約交渉は国交回復後も継続して行うという言質を得て、鳩山はモスクワへと向かう。
だが、南千島に関する領土問題で、またも交渉は難航。河野は後に「ああいう交渉は一生に一度でたくさんだ」というほどフルシチョフと激しい交渉を重ね、妥結に漕ぎつける。
そして日ソは国交回復、その大業を果たした鳩山は退陣を表明した。
引退を発表した鳩山だったが、後継候補を一本化することができなかった。そのため、岸信介・石橋湛山・石井光次郎が総裁選に立つこととなった。岸本命だが激しい多数派工作の中、石井陣営に席をおいた池田勇人と石橋陣営の石田博英とが2位3位同盟を結ぶ。
それによって、決選投票で岸は7票差で敗れることになり、石橋内閣が誕生した。
権力闘争の末に出来上がった石橋内閣だが、発足直後にジラード事件が起こり、その翌日には石橋本人が倒れたため、2カ月で幕を閉じることとなってしまう・・・。
そして、岸信介がついに首相となるのだった!
そんな岸内閣に、ダレスから日米安保条約改定を考慮する連絡が届く。岸は対等な日米関係を望んでいたが、このころのアメリカも同盟国各自に防衛力を求める方針となっており、双方の思惑が一致した形であった。
安保改定を進めるうえで必要な警察官職務執行法の改正に乗り出す岸だが、社会党は労組らのデモ排除を目的とした治安維持法だと反発、世論の反発もあって成立をみず、岸は苦渋をなめることになった。
なお、この昭和33年。東京タワーの完成、当時の皇太子様(現上皇様)と美智子さまのご婚約、フラフープの流行などがあった年であったそうです。
翌昭和34年、総裁選が行われ、改めて岸が総裁に選ばれる。岸はこれまで主流派だった河野・大野・三木の党人三派から、反主流派の石井・池田・石橋派を優遇する新たな体制を取る。その年の参議院選で圧勝した岸は、その三派と安保体制を固めたのだった。
昭和35年、岸らは日米安保条約改定のためアメリカへ行くこととなるが、反岸・反安保を掲げる革新陣営、特に全学連は過激な運動を展開する。世に言う羽田事件もこの時起こっている。
アイゼンハワー大統領の訪日が迫るなかだったが、安保闘争が激しくなる中、衆議院に提出された安保法案は遅々として進まなかった。そして、岸は会期延長と同時に安保も強行採決する方針をとる。こうして与党強行採決によって成立をみた安保改定だが、反対派も激しく抵抗。社会党と民社党は議決無効を主張、全学連のデモや労働組合のストなどが激しさを増していく。
そして、昭和35年6月15日、デモ隊は国会に侵入し警察隊と衝突。この際に、東大生の樺美智子さんが死亡。エキサイトした学生たちによって永田町は大混乱となる。
岸はアイゼンハワー大統領の訪日を断念、日米新安保条約の自然成立をみて退陣を表明したのだった・・・。
昭和の転換点、その激しさがわかる巻!
今回も、それぞれが総裁を狙うなかで激しい争いをし、ときに主流、ときに反主流となりながら昭和史を刻んでゆく様子が見えました。
個人的なところでは、重光の欲によってソ連との交渉が失敗続きだったことが残念でした。結局、未だ平和条約も締結されず、北方領土問題は残ったままなので。
とはいえ、これも政治の世界なのでしょうね。
安保闘争についてはここで書ききれるようなものではありません。
当時まだ生まれていない私には、その様相は想像でしかなく、またそれ以上の激しさなのだろうと思います。
激しさを増した政治闘争でしたが、これから官僚系と党人系、様々な派閥が合いまった更に激しい時代へと向かいます。
そして、いよいよ田中角栄が頭角を現してくる!
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